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トマス・アクィナス著 対異教徒大全 第一巻     S. Thomae Aquinatis Summa contra Gentiles Liber I         Bonazzi Andrea  監修・訳注 (ボナツィ・アンドレア) 北川 朋子 訳        

第1巻2章

  第2章        著者は何をめざすかについて   8   まことに、人のなすすべての努力の中、智慧を得るための努力は他の努力よりも一層完全なものであり、一層崇高なものであり、一層有益でありまた一層楽しいものである。 それが一層完全であるというわけは、人が智慧のために自ら努力することが多ければ多い程それだけ真の幸福のある部分を既に身に付けていることとなるからである。それゆえに智者も言っている。「心の中で智恵の道を思い巡らし、智恵の秘密を深く考える人は、幸い」 ( 集会書〔シラ書〕、 14 ・ 22) 、と。 またそれが一層崇高なものであるというわけは、それによって、人は、万物を「智慧によって成し遂げられた」 [1] 神に似たものにまで、特に近づくからである。それゆえに、相似ることは愛好することの原因であるから、智慧のための努力は友愛によって特別に神に結び附けるのである。このために次のように言われている。「智恵は人間にとって尽きない宝、それを手に入れる人は神の友とされる」 ( 智恵の書 7 ・ 14) 。 またそれが一層有益であるというのは、智慧そのものによって不死の国に到達するからである 。 「智恵を熱望することは人を御国に導く」 ( 智恵の書 6 ・ 20) 。 またそれが一層楽しいものであるというのは、「智恵とのつきあいには苦さがなく、智恵と共にある生活には苦労がない。それどころか、満足と喜びが味わえる」 ( 智恵の書 8 ・ 16) のであるから。 [2]   9   それゆえに、智者の任務を遂行すべく、神の愛に信頼を置いて、それが人の固有な力を超えるにせよ、我らの志すところは、カトリック信仰が公言する真理を、我らのできるかぎり顕示し、かつそれに反対する誤謬を排斥することなのである。すなわち、ヒラリウス [3] の言葉を用いるならば、「私の生涯に委ねられた任務は神に負うものであり、私のすべての言葉と思想とは神について語らなければならないことだと私は自覚している」 ( 『三位一体論』一ノ三七 ) のである。   10   しかしながら、個々の誤謬に対して、論を進め...

第1巻1章

  第1章        智者の任務は何であるかについて   1 「わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととする」 [1] ( 箴言、8・7 ) 。 2 [2]   一般的な習慣では、――哲学者〔アリストテレス〕も事物に名を附ける際にこの習慣に従うべきだと考えていたが ( 『トピカ』 [3] 、ニの一 [110a14-22]) ――事物を正しく整理し (ordinare) 、これを善く司る者は智者として認められている。それゆえに、人々が智者について考えてきた様々の事柄のうちに、哲学者は、「秩序づけることが智者の特徴である」、と想定する ( 『形而上学』、序第二章 [982a17-18]) 。ところで、目的へと導かれるすべてのものにおいて、統制や秩序の規則はその目的から取得されなければならない。各事物が自らの目的に対して適合して秩序づけられている時は、最も善く処理されている時である。というのは、いかなるものの目的も、善だからである。それゆえに、諸技術においては、ある技術は他の技術を司り、言わば支配者であるのを我らは見ることができる。なぜなら、支配される技術の目的は支配する技術の中にあるからである。例えば、医術は製薬術を統制し、これを秩序づける。なぜなら、医学が目的としている健康は、製薬術によって作られるすべての製薬の目的だからである。同様のことが、造船術との関係における航海術や、騎乗法及び戦争のあらゆる装備との関係における戦術において明らかである。 [4] さて、こうして他の技術を支配する技術は , 「棟梁的」技術と名づけられ、いわば、支配的技術である。それゆえにまた「棟梁」と呼ばれる職人たちは、智者なる名称をもつ資格がある。   3   しかし、上にいわれた職人たちは何かある個々の事物の目的を目指して働くのであって、一切のものの普遍的目的に到達するのではないから、一定の事柄についての智者と呼ばれる。この意味において、コリント前書には、「熟練した建築家のように土台を据えました」 ( コリント前書 3 ・ 10) 、と言われている。しかし、全体的な意味での智者なる名は、万物の目的ないし万物の原理...