第1巻2章
第2章 著者は何をめざすかについて
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まことに、人のなすすべての努力の中、智慧を得るための努力は他の努力よりも一層完全なものであり、一層崇高なものであり、一層有益でありまた一層楽しいものである。
それが一層完全であるというわけは、人が智慧のために自ら努力することが多ければ多い程それだけ真の幸福のある部分を既に身に付けていることとなるからである。それゆえに智者も言っている。「心の中で智恵の道を思い巡らし、智恵の秘密を深く考える人は、幸い」(集会書〔シラ書〕、14・22)、と。
またそれが一層崇高なものであるというわけは、それによって、人は、万物を「智慧によって成し遂げられた」[1]神に似たものにまで、特に近づくからである。それゆえに、相似ることは愛好することの原因であるから、智慧のための努力は友愛によって特別に神に結び附けるのである。このために次のように言われている。「智恵は人間にとって尽きない宝、それを手に入れる人は神の友とされる」(智恵の書7・14)。
またそれが一層有益であるというのは、智慧そのものによって不死の国に到達するからである。「智恵を熱望することは人を御国に導く」(智恵の書6・20)。
またそれが一層楽しいものであるというのは、「智恵とのつきあいには苦さがなく、智恵と共にある生活には苦労がない。それどころか、満足と喜びが味わえる」(智恵の書8・16)のであるから。[2]
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それゆえに、智者の任務を遂行すべく、神の愛に信頼を置いて、それが人の固有な力を超えるにせよ、我らの志すところは、カトリック信仰が公言する真理を、我らのできるかぎり顕示し、かつそれに反対する誤謬を排斥することなのである。すなわち、ヒラリウス[3]の言葉を用いるならば、「私の生涯に委ねられた任務は神に負うものであり、私のすべての言葉と思想とは神について語らなければならないことだと私は自覚している」(『三位一体論』一ノ三七)のである。
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しかしながら、個々の誤謬に対して、論を進めることは、次の二点からして困難である。
第一に、個々の誤謬者の非敬虔な(sacrilega)言説は、その言うところから我らが論拠を取り出して、そしてその誤謬を論破しうる程に我らによく知られてはいないからである。というのは、往昔の博士らはこの方法を異教徒(gentiles)の誤謬を論破するのに用いたのであるが、これは、彼ら自身がかつて異教徒であったり、あるいは少なくとも、異教徒の間で交ったりして、その教説によく通じていたために、異教の立説をよく知ることが出来たからである。
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第二に、彼らのある者、例えばマホメット教徒や多神教の信者ら(pagani)は、彼らが従うところの何かある聖典の権威では、我らと共通するものがない。例えば、我らは、ユダヤ教徒に対しては旧約聖書に依拠して、異端者とは新約聖書に依拠して、論争することが出来るのであるが、マホメット教徒や多神教の信者らは両聖書のどちらをも容認しない。これゆえに、すべての人が賛同を余儀なくされるところの、自然的理性の立場に戻ることが必要となる。しかしながら、この自然的理性は(ratio naturalis)[4]、神的事柄においては不充分なものである。
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さて、我らは何かある真理を究明しながら、それと同時に如何なる誤謬がそれによって排除され、また如何なる仕方で論証的真理が、キリスト教的信仰と、協和するかを示すであろう。
[1] 詩編104・24参照。
[2] 「子曰く、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや、朋遠方より来たるあり、また楽しからずや」(『論語・学而』)。「非知之難也、処知則難也(知の難きにあらず、知に処するはすなわち難なり)」(韓非子・説難)参照。「知ることがむつかしいのではない。知ったことを時機に応じて、どのように処理するかそれがむつかしいのである。
[3] Poitiers(フランス)のHilarius(310頃-367)。西方教会の最初の偉大な神学者。異教徒の家族に生まれ、キリスト教に改宗したあと、プアティエの司教となった。
[4] カントのgesunde Vernunft 「健全な理性」を参照。